2015年 03月 18日
18番目の、桜。 |
仕舞を習いはじめて、ほぼ1年。
「熊野(ゆや)」という曲を習っている。
観世流の初級の教本もここから始まっている。
そういえば、ある茶人が
「観世流は『熊野(ゆや)』から始めるんじゃないの?」
と言っていたのを思い出す。
そっか、いままでは準備体操だったのか。
京都の友人は「準備体操をじっくりやるのは
いい先生の証拠だよ」と言ってくれたのだけど。
友人がほんとうにそう思っているのか、
下手なんやな、と思っているのか。
細かいことは聞かないことにして。
ちょっと白状すると、私は、まず数学で舞おうと思っていた。
先生の型を寸分違わず写す。
角度・タイミング・時間、すべて数値化できるはずだ。
そうすれば、とりあえず、きれい舞えるはず。
そうすれば、とりあえず、みんなに自慢できるはず。
『心』みたいな危険物を扱うには、
私の心はまだ疲れすぎている、と思っていたのだけれど。
当然ながら先生はすっかりお見通しで、そうもいかなくなった。
「熊野(ゆや)」のあらすじは、一見わかりやすい。
平宗盛という時の権力者が、熊野(ゆや)という名の愛妾の
帰郷の願いを聞かず、無理矢理、清水に花見に誘う。
彼女の母の、たぶん死に際だ。会いたいと望む熊野(ゆや)。
許さない宗盛。満開に咲き誇る桜の中の、深い悲しみ。
傲慢な権力者と、翻弄される か弱い愛妾。
それはそれで美しい情景なのだけど、
私には、少し、違和感がある。
善悪が分かりやすすぎやしないか、と。
平宗盛は、平家滅亡の時の棟梁だ。
歴史書には、狭量で乱暴者、心の弱い人物として描かれている。
でもたぶんフツウの器の人物だろうと思う。
男子の多い平家において、正妻の嫡男というだけで棟梁をつげるとは思えない。
世が世なら何かをなしえたかもしれない、とも思う。
ほんとうに、生易しい時代ではなかった。
明治時代まで祟っていたと言われる崇徳天皇を生み、
日本史の中でも最強の妖怪のような政治家、
後白河上皇と平清盛が果てしない政争を繰り広げる。
本来なら、清盛の次の棟梁は先妻の子重盛のはずだった。
重盛もかなり優秀な調停型の政治家だ。
難しい時代を卓越した調停力でバランスをとっていた。
その重盛が急死。そして清盛も病死。
平家ナンバー3として見た風景と、棟梁になって見る風景。
裏切りや策略、清盛の強硬政治への恨み、歪み、痛み。
平家の貴公子として人生を謳歌していた宗盛が、
そこに何を見たのだろう。
『熊野(ゆや)』の舞台は平家滅亡前夜だ。
主役、熊野(ゆや)はどうだろう。
遠江の国(いまの静岡県)の池田の宿の女性だ。
その女性が時の権力者の愛妾として、長年、京に住んでいる。
京と静岡。平安時代なら何日の旅だろう。
その距離を越えて京に住み、
歴史上狭量と言われる宗盛に長年仕えている。
容姿がいいばかりではなく、きっと賢い女性だろう。
その彼女に遠くの母の死に目に会えないかもしれない、そんな思いはなかったのか。
平家滅亡前夜を感じながら、宗盛への気持ちはどうだったのだろう。
『四つの花が散る曲』だそうだ。
『清水の桜』『熊野の母』『宗盛・平氏』『女性として花盛りの熊野自身』
私は、心中のような曲だなぁ、と思った。
平家滅亡の気配を肌で感じながら、
遠江の国で散る覚悟の、熊野。
宗盛に散る覚悟をうながす、熊野。
桜は咲き誇り、山にも里にも所狭しと満開をたたえていても、
いつのまにか十八夜の月のように陰っていて、
次の一陣の風で、ほとんどの花は
はじめから満開など夢の話だと教えるように散ってしまう。
まだ満開に見える、18番目の桜。
次の一陣の風が、もう、まもなく、訪れそうな、予感。
1183年6月、平氏都落ち
1184年2月、一の谷の合戦
1185年3月、壇ノ浦の合戦、平氏滅亡。平宗盛捕われる。
1185年6月、平宗盛、京で斬首
処刑にあたり「清盛の子ではない」と言い、
命乞いをしたと伝わっている。
その命乞いが恐怖のあまりの醜態なのか、
ほんの、目には見えないほどの微細な可能性であっても
平氏の再興をもくろんだのか。
宗盛の想いも、はるか遠くの「時」の風の中に。
追記:『熊野(ゆや)』を発表会で舞うことになりました。
私のたどたどしい舞に、気持ちなんか加えてしまったら、
春の嵐にさらされてバラバラになった人形みたいになりそうです。
どうしよう。
by earlgrey01
| 2015-03-18 19:45