2009年 09月 28日
空になる心。 |
「西行」の本を読み、NHKドラマ「白州次郎」の3夜連続再放送を録画して、エンディングの曲(浜田真理子「しゃれこうべと大砲」)を探しあて、彼女の歌にはまっているところです。わざとグズグズしてるって思いますよね。そろそろ本題に入りましょうか。
白州正子著「西行」。1頁目を開いた途端、つぎの文章が現れました。
<以下、著書から転載>
空になる心
そらになる心は春の霞にて
世にあらじともおもひ立つかな
山家集の詞書に、「世にあらじと思い立ちけるころ、(中略)」とあるから西行が二十三歳で出家する直前の作だろう。いかにも若者らしいみずみずしさにあふれているとともに、出家のための強い決心を表しているが、(中略)春霞のような心が、そのまま強固な覚悟に移って行くところに、西行の特長が見出せると思う。
(ここまで転載)
ほらね、これを見て何も思わないでいるのは難しい。
私にとって大切な名詞、いえ、この場合は固有名詞から始まっているのだから。
そして、その強い決心と覚悟を詠んだ歌。
偶然ループだの、神様メッセージだの、現実も空想も思い込みも、あちら側もこちら側もないまぜにして、いま混乱しているならその混乱の中で遊んでみよう。もしそこに神様の声があるなら聞いてみたい。そうは思ったのだけど、、、。
これはちょっと、偶然がすぎるというか、イタズラがすぎるというか。
卒論でテーマにするぐらいだから、この歌は知っていました。
でもすっかり忘れていました。
だって西行といえば「花」、そして「月」。
西行はもともと裕福な武士で、出家したといっても数奇を愉しみ女性にモテ、人に会い花を訪ねて旅し恋ごころを抱く。「悲しい」にしても「うれしい」にしても「恋しい」にしても「あはれ」にしても、気持ちがたゆたゆとほとばしり大騒ぎして、くるおしい歌を詠む。仏道修行や達観ってなんだったっけ、と考えたくなるほど、とにかくやっかいなオッサンなのだ。
出家のきっかけにしても、友人の急死という説と、奔放な女性というか過酷な運命を生きたというか、保元の乱の原因もつくった待賢門院璋子に恋し”あこぎの浦ぞ”とこっぴどく振られたからという説があって、たぶんどっちも、なんだろうけれど。
その待賢門院璋子を想いつづけ、グズグズと恋の歌を詠みつづける。
出家したにもかかわらず、自分も誰も抱えきれない感情の宇宙を生きた人だ。
数十年ぶりに西行の歌にふれ、白州正子の考察を読みながら、
考えるところはたくさんあった。
彼女は「空になる心」から「虚空の如きなる心」への変遷を書こうとしているのだ。
西行にとって歌を読むこと自体が修行であったのかもしれない。
本を読み終わって、もう一度、社名にこめた気持ちを思い出してみました。
それはある意味、「空」になる心、だから。
むりやり教訓めいたことをひっぱり出す気はありませんが、
ここは素直に、覚悟してやりなさい。ってことなんでしょうね、きっと。
ちなみに、最近、近所に「COCOO(虚空)」というカフェができました。
21世紀の大阪では「空」と「虚空」間、約30m。
by earlgrey01
| 2009-09-28 01:35